Home Review 特殊な人物を描きながらも「ドラマのないドラマ」が感動を呼ぶ『きっと、星のせいじゃない。』

特殊な人物を描きながらも「ドラマのないドラマ」が感動を呼ぶ『きっと、星のせいじゃない。』

特殊な人物を描きながらも「ドラマのないドラマ」が感動を呼ぶ『きっと、星のせいじゃない。』
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Cueではアメリカ公開以前より、ずいぶんと長い間この作品を追いかけてきました。製作費12万ドルから全世界で最終的に300万ドル以上の興行収入を叩き出した本作は、それまで『トワイライト』『ハンガーゲーム』シリーズなどのファンタジー・SF系が主流とされていたYA小説原作の映画化作品のなかで、それらとは正反対の“身近なテーマ”を扱い大ヒットを導き、キューティー映画界に大きな驚きをもたらしました。

製作費が安く済むこともあり、本作のヒット以降、アメリカではこういったタイプのYA小説の映画化企画が相次いで立ち上がっていて、マンネリに陥っていたキューティー映画の大作シリーズものからの脱却のきっかけとなっています。


さて内容ですが、難病というテーマを扱いながらも決してお涙頂戴ではない、実直で爽やかな青春映画という印象でした。二人が結ばれるまでを巡るロマンティックな部分と現実のバランス感覚が絶妙で、脚本が『(500)日のサマー』のスコット・ノイスタッターとマイケル・H・ウェバーのコンビだというのも頷けます。

難病モノを大げさに描かず日常的なシーンを見せる

何よりも驚いたのは、ガンや義足、盲などドラマ性の高いキャラクターを扱っているにも関わらず、ストーリー展開がとても日常的なエピソードで進み、劇的な展開が少ないことです。

共に癌に冒されているヒロインのヘイゼル(シェイリーン・ウッドリー)とガス(アンセル・エルゴート)はとても普通に出会い、とても普通に恋に落ちていきます。

本の貸し借りをきっかけとしたメールや電話、ピクニック、ある目的を果たすために訪れるオランダでのデート、ディナー、キス、セックスなど、彼らのたどる恋の過程は(途中ヘイゼルの病気が悪化するというアクシデントがあるものの)基本的に劇的な展開はありません。
平凡とも言えるほどに淡々とエピソードを重ねます。彼らの両親たちもこの恋に非常に協力的です。

こういった日常的な描写が続くからこそ、後半の“口論”や“手紙を読む”といったシーンが、特に派手なシーンではないにも関わらず、彼らの力強い台詞によって感動を呼ぶのだと思います。

なかでも、物語の後半、ローラ・ダーン演じる母親がヘイゼルとケンカしたはずみで告げる、彼女のヘイゼル亡き後の計画は、日常を描写し続けてきたからこそ活きる未来への発言であり、だからこそ感動するのです。

彼らは悩みながらも決して歩みを止めない、“未来”を見据えたキャラクターたちなのです。

非日常的なキャラクターの役割

そんな日常を描き、未来を見据えたキャラクターたちの中で、一人だけ異質な人物がいます。
劇中、ヘイゼルが偏愛する小説「大いなる痛み」の作者、ウィレム・デフォー演じるピーター・ヴァン・ホーテンです。

「大いなる痛み」はヘイゼルと同じ病に侵されたアンナという女の子が主人公の小説で、何の脈絡もなく文章の途中で終わる、一風変わった構成になっています。ヘイゼルはアンナと自分を重ね合わせていて、小説のその後の世界、つまり自分の行く末や、いずれ来るであろう自分の死後の世界を執拗に気にしています。

そんなヘイゼルのためにガスは、この作者とヘイゼルを会わせようと計画します。
物語の中盤、アムステルダムで対面を果たす彼らですが、彼らの憧れの作家は、家に篭もり、酔いつぶれて、ファンにも横柄な態度を取る自分勝手な、ただの中年のアル中でした。

世界中から送られてきたファンレターが無造作に散らばる家のなかで酔いつぶれ悪態をつく作家のキャラクターは、それまでのリアリティある市井の人とは明らかに違います。ベタベタなほどに、作為的なキャラクターです。

なぜ突然、これほどまでに違うキャラクターが出てきたのでしょうか。
私は、彼がここまで違うのは、作家がこの作品で唯一前を向けずに“過去”で時間が止まっている人物だからだと思います。

ヘイゼルとガスは、2人を招待したのはヴァン・ホーテンの秘書の計らいで、彼女の口から小説のアンナはヴァン・ホーテンの実の娘がモデルであり、彼が娘の死に対していまだ清算できていないことを知ります。
登場人物全員が“未来”を向いている中で、ヴァン・ホーテンだけは”過去”を向いているのです。
そしてこの作家の存在は、そのまま本作における“過去”の象徴と言ってもいいと思います。

物語の終盤、ヴァン・ホーテンは思わぬタイミングで、ヘイゼルの前に現れます。しかしヘイゼルは彼を拒否します。
ガスとの出会って未来を見るようになり、ヴァン・ホーテンとの出会って過去と決別し、そのヴァン・ホーデンと再び出会うことで、最終的にはヘイゼルはヴァン・ホーテンが彼女に渡したもの=“過去”を取り込み、改めて未来へ向かって歩いていく決意します。

映画におけるテキスト・コミュニケーションの表現

映画を現代で描く上で、スマートフォンのメッセージやメール、手紙など、デジタルの文字情報は重要な位置を占めています。

メールの文字を映画でどう見せるかは、『ユー・ガット・メール』などから始まり、口に出して読む、PC画面を見せるなど、小道具としての扱いが中心でした。携帯電話でのメッセージのやりとりも、登場人物の目線で携帯の画面(文字)が映し出されるなど、まだ小道具としての表現でした。

しかしスマフォのメッセージは、そのスピード感から、会話と同等の扱いをしないといけません。そうなると小道具としての扱いでは色々難しくなってきます。そこで最近では観客に向けてマンガの吹き出しのようにメッセージが出てくる、という表現を多く見かけるようになりました。

この辺りは『ミーン・ガールズ』の電話の同時会話シーンで、画面分割しテンポよく見せる表現に通じたものがあります。”リアル”ではないのですが、映画での”リアリティ”は出ます。

この映画では原作が小説ということもあり、スマフォのメッセージやメール、手紙など、文字情報が映画の重要なツールになっています。
スマフォのメッセージは手書き文字でアニメーション化され画面に出てきます。
映画のテイストに合わせて、文字にもキャラクター性を付けて表現しようとしていました。

その効果が出たのが、序盤、ガスが「大いなる痛み」の感想をバンバン、メーッセージで送ってくるシーン。
テンポもよく楽しいシーンに仕上がっていました。メールに夢中な娘が両親にたしなめられるシーンは「やっぱりこういうのって万国共通なんだな」と思える微笑ましい場面です。

一方で、小説だと効果的な演出が作れる、メールや手紙の「文章」が、この映画の演出ではさほど工夫されず、「メールでこう書いてあった」という報告のためのツールだったり、登場人物のモノローグで表現されていたりと、単なる物語を進行させる便利で都合のいい小道具になってしまっていたのが残念でした。

ラストにかけての手紙でのやり取りは、特に凡庸な印象を拭えませんでした。登場人物がただその場で手紙を読んで、それがモノローグとして朗読され、我々観客もそれを聞いているだけ。

原作の構成を再現するとこは大事ですが、映画として見せ方を工夫しなければ映像化した意味がないのでは?と思ってしまいます。
ここまでがとてもよかっただけに、感動したいという観客の欲求に応える形で、もっと創意工夫のある、リアリティあふれる演出で表現して欲しかったなと思いました。

劇的じゃない本当の感動を

でも、観賞後は、とても前向きで爽快な気持ちになれる作品であることは変わりありません。
「誰かが死ぬから悲しくて泣く」というものではない、我々が生活している中で起こりうる、本当の日常的な感動をぜひ体感してほしいと思います。