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小さな教室で大きな世界を描く『バベルの学校』

小さな教室で大きな世界を描く『バベルの学校』
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La Cour de Babel_00フランスの学校には、11歳から15歳の世界中来た子どもたちがまずはフランス語を学ぶために編入される「適用クラス」というのがあります。このドキュメント映画は、24の国から集まった色々な人種、宗教、生活、価値観を持つ生徒たちを追ったものです。


ジュリー・ベルトゥチェリ監督は『やさしい嘘』『パパの木』と、力強い女性像を描いてきましたが元々はドキュメント出身の人です。映画もドキュメントっぽい雰囲気があります。今回は古巣に戻ってドキュメント映画を撮りました。
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最初見る前は、適用クラスの先生と生徒達の交流を描く「二十四の瞳」みたいなお話かと思っていました。
しかし実際に映画を見ると、それはいい意味で裏切られます。

カメラはクラスでの生徒達の授業の様子を静かに見つめるかのように写していきます。生徒たちの家での様子や学校外での生活は追いません。あくまでも学校のみです。
さらに学校でも他のクラスの生徒や先生の顔をほとんど映しません。ただ淡々と授業の様子と親子面談の様子を写し取っていきます。

にも関わらず、この映画は生徒たち一人一人の家庭環境や、フランスに来た経緯、さらにはそれぞれの国の事情さえも観客に提示していくことで、とても大きな広がりを感じさせてくれます。制作者の目線が凛とした素晴らしいドキュメント映画でした。

登場するのはまだフランス語が十分に話せない子供達です(と言っても、日常に不便がない程度にはしゃべれますし、感情も言い表せます。なんて羨ましい…(笑))。そのため彼らが放つ言葉は単刀直入でシンプルな分、語られる内容、彼らの気持ちがストレートに見ている我々に届きます。

映画は、クラスでの授業の様子と、先生と親子の面談の様子が交互に映していきます。授業の様子でそれぞれの生徒の個性がわかり、親子面談で、その子の現状の問題や、家庭環境などバックボーンがわかる仕組みです。

ある子はあまり話さないので、友達作りが上手くありません。先生がそれを指摘すると、親は「うちの国の女の子は控えめであるのが普通なんだ」と説明します。

ある子は親の虐待から逃れるためフランスに来たものの、イマイチ馴染めず、勉強も上達せず、このままでは国に帰ることになるかもしれないのに、周囲に対して不平不満ばかり。

ある子は家族の中で唯一フランス語が話せるため、移住手続きの手伝いでなかなか勉強が出来ず…。しかもその手続きする理由がかなりシリアスなだけに、みんな現状を受け入れるだけで打開策を見出すことも出来ません。

そのようして生徒たちがフランスに来た理由を知ると、彼らにとってその国の言葉を得るということが、生きることや未来への希望に繋がるとても大事なことであることがわかっていきます。

そして中には家庭の事情で学校を突然去らないといけない子も出てきます。
言葉でのコミュニケーションが不自由な者同士でも、一緒にいたのが短い期間であっても、小さなクラスのみんなにとっては大切な友達であることは変わりません。その別れを淡々とカメラが写していくのですが、子どもたちの別れの様子は見ているものにとって、とても胸を打つものでした。

音楽がシンプルながら時に美しい旋律で、時にコミカルな音色で、言葉足らずの映画をそっと支えています。音楽はオリヴィエ・ダヴィオー。彼は2011年にフランスで公開され数々の賞を受賞し、アメリカのアカデミー賞長編アニメーション賞にもノミネートされたアニメーション『Le Chat du rabbin(長老(ラビ)の猫/ラバンの猫)』の音楽も担当していました。

映画は「学生映画祭に自分たちで作ったドキュメント映画を出品して賞が取れるか」というエピソードがクライマックスとなります。しかしだからといって映画の中でさほど、その制作工程を追うこともしません。

ドキュメント映画制作の過程を追えば、生徒同士の交流を普段の授業以上にドラマティックに描くことも出来るはず。
しかしこの映画はあくまでもストイックに、一歩離れた視点で淡々と生徒たちの教室での日常をとらえ続けます。

そして、本当のクライマックスは最後にありました。担任のブリジット・セルヴォニ先生がこの生徒たちを最後に適用クラスを去ることになっていたのです(省庁の仕事に移るとのこと…栄転ですね)。

ブリジット・セルヴォニ先生はこのラストまで画面で声はすれど姿はあまり写されません。カメラのフレーム外から忍耐強く親身になって生徒たちと会話してきた先生です。客観的なインタビュアーのようにも思えます。

それがクラスの最終日に、それまで映画の中では生徒のことしか話していない先生が、さらりと自分自身の事、今日で最後の授業であることを話します。そして生徒たちと一緒に最後を惜しむ姿が写され、生徒たちと同じく映画の中の登場人物の1人になります。この辺の切り取り方は実に見事でした。

言葉、学校、日常、行事…と映画的な要素を切り捨て、淡々と適用クラスだけを写しながらも、大きな世界とドラマを感じる、まさに多国籍なクラスだからこそ描ける世界がそこにはありました。